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SocialWork  16

起きている出来事と、人々の動きと、お金の動きと:)そんな視点で、今置かれている自分の立ち位置や、広くは世界を見渡して行くとどんな風景が見えて来るのかって事を少し考えてみます。アラキが活動している多くの場所では、出来事から起因した次のアクションとして準備された対応策として機能して行く事が多いわけですが、それとは別にお金の流れ方で、別の事が背後で動いている事に気がつきます。その多くは、起きている事柄を解決する為に必要な経費として生まれて来るものもあれば、それとは別に、その事から利益を得ようとする方達の働きも生まれてきます。状況的に、自然な流れかもしれないのですが、利益を追求する方達の力が強くなると、課題解決に向けて動きはじめた取り組みが、形上そうであっても、背後では、その事を利用した利益を追求する為の仕組みへと変貌して行きます。表現としては、健全なサポートが生まれない仕組みになってしまうと言うことかなと思うのです。

アラキの経験上、そのような現実を幾つか体験しています。ものすごく細かい事になるのですが、幾つか経験した事を紹介します。

仕事の依頼を受けて、依頼された街へ出向く場合のほとんどは、依頼先が交通費用を負担してくれるのですが、ほとんどの場合、公共の交通費用に準じます。それにプラスして、講師料金や、宿泊費用が上乗せされて、源泉徴収された料金がアラキの手元に渡される仕組みになります。ある時期、同じ内容の企画を幾つかの街をまたいで動いた事があるのですが、そのうちの2つの街のアラキへの支払い伝票の内容が、他の街よりも少ない金額が明記されていました。そこから、さらに源泉徴収されているので、最終的にアラキが受け取った報酬は、他の街から、支給された金額よりも、かなり少ない金額でした。それとなく訪ねると、アラキのステイタスが、フリーランスであり、他の方達は、社会的に信用のある、大学教授や、病院の先生等なので、それなりに報酬も高くなると言うことでした。後日談として、結局その2つの街の経理担当の方が、少しずつ不正にお金を着服して、数千万を横領していた事が明るみに出て、逮捕されました。当時、大きなニュースとして報道されています。いろいろな理由をつけて、人々のお金を少しずつ着服して、数十年そのポジションにいて、人の動きと、お金の動きを利用して、私腹を増やしていたと言うことになります。

もう一つのアラキの経験した事例です。

ある街の、学校の教員グループからの相談がありました。毎年その街の教育委員会の主催で行われる教員向けの講演会が企画されているとの事。計上されている予算は毎年100万円の講師料と、講師依頼に対して、交通費、宿泊費等をさらに20万円を計上した、合計120万円になるそうです。その講演会なのですが、教育委員会の方で、毎年違う様々な講師を準備して頂けるならまだしも、毎年、同じ方を招いて、毎年、先生達は同じ話を聞かされる事になるのだそうです。そして、その招かれている講師の方は、有名な方で、教育委員会としては、その方を呼ぶことが出来る事がステイタスになっているようで、先生達から、予算をかけている以上、毎年講師を変えて欲しいという要望を出してはいたのだそうですが、教育委員会の方針は変わらず・・・招かれている方も、街に助言をする事無く、毎年、100万円の講演料金をもらい、20万円分の接待を受けて、90分話をして、帰るだけ・・・なんとも、税金の使い道として、それでいいのかと思わされる事例なのですが、現実なのです。それで、アラキに相談があり、同じ100万円を毎年使うなら、どのような方法で、その街の子ども達に、還元する事が出来るかなと言うことでした。アラキは、コミュニティーソーシャルワーク的なアプローチを紹介しつつ、その街の先生達に集まってもらい、ボランティアで勉強会を開かせてもらいました。3年計画で、3回分、つまり9年で、1つ、街に変化があるといいねって感じなのですが、先生達にもいろいろアイデアがあり、楽しい勉強会になりました。その後、その先生達と、学習会に参加する事ができなかった先生達と、小、中、高、幼稚園、大学、専門学校、多くの先生達で、いろいろプランを考えて、アラキも微力ながら、協力させて頂き、話は進んで行ったのですが、結局、毎年招いている講師を又、招いて同じ事の繰り返し・・・一応、教育委員会と何度か、話を詰めたらしいですが、おそらく、アラキが先生達の相談にのりながら、先生達のアイデアを中心に街の学びの場としての学校と、社会を、そして、地域の社会参加のあり方をも含めて、サポートしたことが腑に落ちなかったらしいとの事でした。そして、教育委員会は、街の未来に関わる事より、自分達のステイタスにこだわった結果を毎年繰り返している事になります。講師料金を頂く側の有名な方は、確かに有名になるだけの事をやってきていますが、いつの間にか、お金の流れに自分を乗せている事に、気がついていないのか、いつの間にか、変貌している自分の姿に気がついていないのか、なんとも、悲しい現実だなと、感じるのでした。

さて、アラキですが、ここでも、ただのフリーランスの事は、信用におけないとの事でした。理由に使われるのです。ステイタスの高い方々には価値が存在して、ステイタスの低いアラキのような存在には、価値がないというのが答えなのです。もしも、アラキが関わっている事を全て伏せて、地元の高専の先生が全てサポートしているという事で、話を進めたら、うまくいったかもしれないなと、あとから、アラキの作戦ミスだなと振り返るのですが^^;しかしながら、この街の先生達や、街の方達と交流を持てた事、予算はアラキの方で出させてもらえた事、意義のある時間に、本当に感謝しかないのでした。本当は、街の方々、先生方のアイデアが、自分達の支払った税金を資金に、未来に還元出来る仕組みとして、生まれ変わって欲しかったのですが、全て、アラキがフリーランスである事が仇になってしまい、申し訳なかったなと・・・いろいろ考えても後の祭りなのですが・・・

ステイタスが1つの壁となり、たった1人の講師に毎年お金が流れて行き、教育委員会の招いた人達が税金を使って自己満足するという現実が、日本中に蔓延している可能性が未だに拭いきれないのが現実です。この街の教育委員会の事例でもはっきりしているのは、子ども達の為にはじめた先生方の研修をサポートする為の予算が、いつの間にか、ステイタスの自己満足の為の仕組みに変わってしまったという、残念な、現実なのです。

健全と思われる循環が生まれる環境を求める事が、目標になるような世界から、少しでも早い時期に抜け出す為には、どこが突破口になるのか、2020年の始まりに際して、思考を走らせるアラキなのでした。今年はさらに、世界的な規模の出来事が、自然環境、エネルギー問題、世界経済、等、国単位の話が世界中を走る事になると思いますが、そこに生きている人となりの一人間としてのあり方にもう少し寄り添いながら、物事に対して、人々に対して、生きて行く事が出来れば、世界はもう少し違った未来を我々に見せてくれるはずだと信じながら、踏ん張りたいなと思うのです:)

改めて、2020年も、よろしくお願いいたします:)

20200107TUE@KTM 吉日

SocialWork  15

生活の基盤という言葉を少し掘り下げてみようと試みる^^;生きているという事を意識出来るかどうかという事でもあるのですが、今、ここに生きている事が本当に実感として、あるかないかというレベルでの話にもなるのかなと思うのでした・・・世の中が、いろいろな意味で、不安を感じさせる出来事が増えると、あえて、それらを覆い隠すような何かによって、別の物へと置き換わり、本題が本題として、その場から消えてしまったようになり、消えていないのだけれども、あたかも無かったかのような扱いになり、深刻な課題としてさらに、深まり未来へと先送りされ、受け取る側の未来には、先送りされた課題への対応というリスクからの始まりというか、マイナスらのスタートを強いられる事になるのかなと思うです。

社会参加の入り口には、今ここに生きている我々の確固たる生命活動があり、それらが基本的な人権として保護され、過去から受け取った様々な財産、歴史的な学びを未来へと受け渡して行くという、大きな流れ、使命、命の役割というか、そのような大きな大きな、命の連鎖があるのだと思うのです。

それらを無視して、もしくは、軽んじて、ごくごくわずかな方達の価値観と、社会を動かす経済力という権力で、未来へと進んで行くと、多くの方達は、今ここに生きているを実感しながらも、その実感は、なぜ今ここに生まれて苦しんでいるんだろうという事になってしまうのではないかなと思うのです・・・

しかしながら、希望もあります:)それは、小さな小さな光にもにた、希望という原石のようなものかなと思うのですが、点で踏ん張っている方達が世界中にいると言うことと、こうして、手の平から、世界へと情報を発信し、さらに受け取る事ができる世の中であると言うことが、点で活動している方達を孤立させない仕組みとして世界に存在し、現時点では誰でもがそれらにアクセスする制限を搾取されていないのです:)つまり、誰でも世界へアクセスする事が妨げられていないのです:)それは、孤立しないということです:)孤立しないことの大切さは、これからの世の中において、様々な視点から重要なキーワードになるのかと思うのでした:)

改めて、今ここに生きている自分のあり方を足下から見つめて見る:)日々、こうした視点を忘れる事無く、広い視野で、深い気持ちで、生きて行く事ができればいいなと、思うのでした:)

20191118MON@JPN 吉日

SocialWork  14

少しシンプルな話をしたいと思います。地球上に生き物が現れて、数十億年の歳月が流れ、現実の世界が、我々の日常として、今、ここに生きています。それは、いろいろな必然のなせる技でもありますが、今生きているのは、紛れもなく自分であり、それを信じる事ができなくても、それを意識する事が無くても、今、ここに、重力の影響を受けながら、生存しているという事実です。

当たり前の事だと思うかもしれませんが、生きているという事への受け取り方一つで、生きて行く我々の未来は幾重にも道が準備されているのだと思うのです。

アラキ的に考えるに、ソーシャルワークの根本的な理論と願いの中には、そのそれぞれの生きるが共に共存し、希望の持てる世界を未来へと送り届ける事の入り口を常にくぐり抜けて行くようなものなのかなと。そう考えると、自分の生きるの足下から、それぞれが共に生きている今ここの有り様へ対して、様々な思考が走り始めるのかなと思うのです。

それが、それぞれの生きるのあり方として、その個人の生き様になるのかなと。人間性とは、人の間で、心が生まれると書きます。1人1人の足下から張り巡らされた思考の様々がそれぞれに走り回っている思考の様々と複雑に響き合いながら、それぞれの生き様として、関わる全ての者達へ、気づきと学びを与えてくれ、また、それらを受け取り、つかみ取るのだと思うのです。世の中の出来事は、大きすぎて想像がつかない事が多々ありますが、我々の足下から始まっていると考えると、我々1人1人の生き方一つで、変化させて行く事が可能な事なのだと思うのです。

そんな事を、2019年09月は改めて考えさせられていました。平たくいうと、未来に対しての責任は大人にあるんだって覚悟がどこにでも潜んでいるんだと思うのですが、そう、誰の心の中にもあるんだと信じているのですが、もっと強く、その事を信じて、できる限りの、制限時間一杯まで、食い下がりたいなと思うのです:)

さて、9月はほとんどMacを開く事ができませんでした・・・いいわけになりますが、もう少し、ちゃんとした体調管理と、時間管理と、日常が織りなす様々な出来事全てが、我々の大切な時間であるということを踏まえながら、気合・気愛で、555!!!だなということで、改めて、10月になり、気合いを入れなおすアラキなのでした:)と、言うことで、10月は走り抜けますので、よろしくです:)

20191001TUE@JPN 吉日

SocialWork  13

さて、ソーシャルワークという視点から、それぞれがどこから、今の風景を見ているのかって事を気にするのですが、日常生活の中にあっても、その事は、当たりまえのように存在しているミスコミュニケーションの代表例というか、ともすれば、障壁だったりするのかなと思うのでした・・・

今ここで生活をしている方にとっては何かしらの事情や、条件、意味があってその方の環境がそこに現実として存在しています。それを見た第三者が、それらの事を全て無視するというか、考えが及ばないというか、自分の見ている風景、つまり自分にみえているままの風景、価値観というか、第三者の方の見方だけで、今ここで生活している方と関わると、第三者の方は、おおかた、自分の価値観を投影させた関わり方をする事になるので、今ここで生活している方が、戸惑ってしまって、その事が、第三者の方には、不快感になってしまったりと、コミュニケーションにおける負の連鎖が起きてしまうのかなと・・・

これ、本当に残念な出来事へと発展する事が多いのと、なかなかその事に互いに気づき合い、みえている風景を互いにシェアするまでに至らない事が多くて、人間関係も、周辺との関わりも、険悪のまま、どちらかがひくまで、折れるまで、決着が付かないという事態にも陥ったり・・・

何がポイントで、何が今必要で、どこから糸口をたぐり寄せて行くのかなんて事がスコーンと抜け落ちていては、現状は何も変化していかない・・・しかし、このような現実があまりも多くて、残念だなと感じるのでした・・・

せめて、互いにみえている風景をシェアして、そこから、出来るかぎりすりあわせをしながら、次の一手を互いに構築して行くという作業が増えるだけで、世間の風通しは、かなり良くなると思うのです:)

みえている風景とは、具体的にい言うと、その人が大切に思っている事からわき上がる、価値観と言う心のフィルターのことだとアラキは考えています。

日々の生活の中で、今ここに生きている自分の見ている風景をしゃがんで見てみたり、寝転がって見てみたり、何かの台に乗ってみたり、いろいろな角度から眺めてからでも、遅くはないというか:)それから、のんびり動いて見る事で、さらにみえてくる、見せられているというか、そんな世界から一歩抜け出す事ができて、世界を見渡す視野がひろがるというような事がおきるのだと思うのです:)

自分の外側の世界をさらにその外側から見渡す事が出来れば、ただそれだけで、生活の中で、様々な変化が生まれ、最終的に社会が争いのない世界へと変化していくのかもしれないという期待を心のどこかに持っています:)、我々は、この時代、大きな社会変化の転換期を目の当たりにするのかもしれないと思うのでした:)

20190824SAT@JPN 吉日

SocialWork  12

自分への問いかけを少し考えて見る。自分への問いかけがあるのか、ないのか、そして、その問いかけはどこからわき上がってきたもので、何が自分の中で、問いとしてスポットライトが当てられているのか。光が当たっている場所と、それらを際立たせているまわりを見渡し、上を見て、下を見て、左右を見て、前を見て、後ろを見て。見落としていたり、はっと気づかされる事があったり、いろんな事が新たな気づきとして、さらにその問いが自分へのある意味での疑問に対する答えでもあるのかもしれないという事も含めて、自分からわき上がってくる物達へ、自分がどのように対峙するのかって事なのですが:)

いろいろな疑問、不思議だなって思う事の原点には、経験から得た知識や心のありようなど、必ず背景があったりすると思うのです。その事に気づきはじめると、又1つ自分の生きるが深まる事になり、さらに自分が生きている今の世界をより深く受け取る事ができたり、別の角度から見る事ができたり、興味関心がさらに加速するのかなと思うのです。

社会参加のあり方は、社会変容への関わりでもあり、それは、1人1人の個々の有り様からすでに始まっていて、と、いうか、それが前提というか、常に起きているんだということです。その事を個人の生活レベルで小さな変化を生んだり、その事が地域に影響を与える事もあるかもしれません。それはおそらく眼には見えない速度で、確実に様々な変容を伴って我々の生きるを支えているのだと思うのです:)

ソーシャルワークという言葉を使う時には、いつも以上のような事を思い描いています。そして、その小さな変化に気づいている方達と、そうではない人達との橋渡しや、気づいている方達にはそれをより明確にする事で、より具体的な動きになるかもしれないという関わり方をしてみたり、気づいていない方達との関わりの中では時間をかけて、小さな気づきが生まれる事を期待したりしています。

生きている隙間に何が転がっているのかって考えるとわくわくしてくるのですが、どんな状況でも、どんなに唖然とする事態であっても、生きてさえいればなんとかなるかなって事が、アラキ的には、最低限の心の支えになっていたりします。命ある限り、動けるという事を1つ信念に、時間をかけて、1つ1つかなと:)

さて、ここまで、12回に渡って、アラキ的に捕らえているソーシャルワークという言葉と、実際に動きながら感じている事と、経験からの話をして来ましたが、もう少し細かい所での話なんかもして行く事ができるといいなと考えています:)


20190720SAT@KTM 吉日

SocialWork  11

社会参加の最初の入り口として、日本国民であれば、誰でもが持っている義務の1つに選挙権があります。その選挙権の意味について少し掘り下げるなんて事ができたなら、それは、大きな進歩だと考えています。現状の日本国憲法には、国民の権利と義務という項目が明記されています。つまり、民主主義を掲げている国家として、その屋台骨のよりどころは日本国憲法であり、その事は揺るぎない現実として、現在はもちろん、未来の国民に対しても背中を支えるものである事が、明記されているのです。しかし、憲法を巡る解釈などは、現憲法の誕生から、今なお議論される所となっています。その事は、大切な事なので、今後も議論は続くと思います。やがて、議論し尽くされる時が来るのだとも思います。もともと、民主主義には、完成形はなく、それを成し遂げた国も未だ存在しないと思うのです。主義であるということは、主義であり、形を明確に定めたものではないからです。そこに向かって、様々な状況に対してベストを尽くして行くという事なのかなと個人的には思ったりしています:)

街1つとってみても、完成形がどこにもない:)時代とともに、そして、生活を支える様々な技術の進歩によって、ありようが変化して行く:)生き方そのものが変化していく:)それは、進歩であり、繁栄であり、進化であったりするのだと思うのです。

自分達、1人1人に備わっているものは、使って行く事が大切で、そこには、権利と義務と、社会的な責任という、最低でも3つの要素が備わっていて、その1つ1つが、貴方がいてくれるから、社会が成り立っていて、貴方の存在そのものが、社会を支え、社会参加をしている事になり、さらに、権利と義務と責任は、それらを支える沢山の要素が機能しているからこそ、国という枠組が成立していて、国民という大きなくくりの中で、個人が個人でいられる世の中になっていると思うのです。

ソーシャルワークとは、今ここに生きてる方達と共にコミュニティーが成長する事を願っておこなわる取り組みだと、アラキは理解して行動しています。その国の背骨には何があり、歴史、文化習慣、地形、自然、産業などの生活を支える背景と国の経済状況、国際的な立ち位置などなど、多岐にわたる情報に触れながら、ゆっくりと時間をかけながら、前進していくことなのかなと思うのでした:)

日本では今週選挙が控えています。期日前投票、当日の投票などは、権利、義務、責任の3つの要素を1人1人に問いかけてもいます。自分の国へ対する、そして、自分の未来や、これからの世代への背中を押すという意味でも、投票場へ足を運んで、一票を投じる事の大切さを、是非実践して、かみしめてもらいたいなと思うのでした:)選挙当日は、天気がいいことを、そして、社会的に穏やかでありますように:)

20190719FRI@KTM 吉日

SocialWork  10

若い世代が社会参加する為にはいろいろな環境的な条件や、それに伴い、社会全体の経済的状況、国際的に置かれている状況等、大きな枠組がどれだけ許容範囲があり、余裕があるかないかで、全く違う世界へと変貌して行くと考えています。日本的に言うところのアルバイトや、ボランティア活動、各種イベントへの参加や企画、外部団体との連携や活動のサポートなど、受け入れ先と経済状況で、ともすると、若い世代を精神的にも肉体的にも消耗させて、社会への失望感を経験させてしまう・・・なんて事が起きかねない状況だと、未来へ対する希望という無限に広がる可能性が狭められていくというか・・・残念な事になってしまうと思うのです。

日本は、残念ながら自殺大国の1つとして、数えられています。自分で自分の命を落とすという、悲しい現実が毎日どこかで起きているのが、現在の日本の現実です。このような、悲しい出来事が起きてしまう日本という国に我々は生きているという現実を突きつけられているのです。国を代表する公の立場の方達の間では、あまり意識されていないかもしれません。もちろん、様々な方達が公の立場で踏ん張っていることも知っています。その、バランスが少し悪くなっているんだろうなって、理解して頂けると幸いです。また、悲しい現実が起きている事は、もう少し、突っ込んでみると、人としての尊厳や、人権に関わる最も重要な出来事だと思うのですが、そういう部分には、あまり光が当てられないのです。経済が成長する事は大切な事です。しかし、その影で、多くの方達が、自分で自分の命を絶ち、そして、その事があまり注目されるず、見て見ぬふりをする社会の中で、言葉とイメージだけが先行しているような・・・

我々がどのような視点で社会を見つめて行くのかと言うとき、このような現実を人々に提供している国の政策の中で、我々は生かされていると言う感覚になれるかどうかということが、実はこれからの世界では、非常に大切な、自分への問いの1つになるのではないかなと、アラキは考えています。社会全体へ対して、1人では何もできないと諦めるのではなく、貴方がいてくれるからこそ、今、この社会が生きていて、貴方がいてくれるからこそ、我々は、いろいろな気づきを共有する事ができ、相互的な関わりの中で、共に成長しているんだという事をもっと、意識していいだろうし、そうする事で、悲しい現実は減るのだと思うのです。

責任の所在を求める報道や、個人に責任を負わせて、それで出来事に終止符をうち、無かった事にするみたいな動きが、世界中で蔓延しているかのような気がします。つまり、矛先や、現実問題から、話題、課題をそらし、別の事で、解決したかのように錯覚を起こし、また、次の出来事が語られ、結局の所、何も課題は解決されず、本題の課題に関しては、さらに深刻さを増して行く・・・これでは、誰も幸せにはなれないと思うのです。

若い世代が、何度も失敗しながらも、そこから何を学ぶのかって事を大人がしっかりとサポートして、未来を担う大人として育て上げるというか、共に成長していくみたいな関係を日々続けて、子ども達が笑って過ごせる、そして、大人達も笑ってそれを見守る事ができる、そんな未来を送り届ける事ができるといいなと思うのでした:)

今ここで出来る事、出来ている事、それぞれみんなに、たくさんあると思うのです:)何も出来ていない人は、世の中に存在していないと思うのです:)だからこそ、今一度、自分の人生によりそって、生きたいと思ったりするのでした:)


20190716TUE@KTM 吉日

SocialWork  9

社会参加への取り組みについて、様々な視点、角度からアプローチをしては、トライアンドエラーというか、なかなか一筋縄ではいかないのがあたりまえなのですが、以外と身近な所に壁が存在したりします。動きながら状況を観察して、今ここで、生きている方達との関わりの中から、それらが浮き彫りになってきたりするのです。つまり、はっと、気づかされる瞬間に出会ってしまうというか・・・多くの場合、そのコミュニティーに存在している、無意識のルールというか、住んでいる方達の多くが気づいていない、気づいていても、誰もその事に触れないので、黙っているとか・・・そんな、眼に見えない暗黙のルールが根強くコミュニティーに根を下ろしていたなら、それは、なかなか手強い壁の1つとして立ちはだかるのです。

アラキの経験の中でも、人種差別という、暗黙のルールというか、それが日常的で、当たり前だから、それに意義を申し立てるなんて事は、そこに住んでいる方達には、想像もつかない世界だったりするのです。その枠組の中でコミュニティーは一応機能していきます。しかし、外からみて、中に入ってみて、さらに中から外をみてと、肌身で感じる世界観はかなり歪なものとして伝わってきます。コミュニティ全体が、差別を前提とした行政区画として整備が続けられていたりもしています。例えば、こちらの道路以外は、差別される側の方達は歩いてはいけない、つまり、使用を禁止されている・・・そんな具合なので、差別される対象の方達と、差別をしている方達とが、街の中で、はっきりと分かれていて、行政が成立しているのです・・・これには、本当に驚きました。アラキは、そのコミュニティでは、差別される側の方に属するので、知らずに差別する側の方達の道路を歩いていて、注意され、差別される側の方達の道路の方へと、移動させられました。その後、そのコミュニティの若い男の子が話しかけてきて、詳しく話を聞かせてくれました。

何をもって、優位性を決めているのか、決められているのか、そして、その発想は、どこからやってきて、どのように社会に組み込まれていったのか、謎な事が多いのですが、支配する側と、支配される側という構図から、小さな差別が至るところで起きているということでしょうか?おそらくは、支配する側の方達は、かなり少数であり、支配される側は、圧倒的大多数の方達なのだと思います。その事が、明確な差別の入り口というか、きっかけになっているような気がします。

確かに、地球上で生きて行く中で、不安ではない状況を少しでも多く取り入れながら、生き抜いて行かなければならない我々は、不安材料を遠ざける傾向はあるのだと思います。その事を利用して、人々を支配したり、社会をコントロールしたり・・・そうやって、人々の心の中に少しずつ、差別という概念を植え付けているとしか、思えないアラキなのです。

社会参加のあり方は、人の数だけ参加の仕方があり、それぞれが響き合いながら、世界を支えていると思うのです。自分達の身のまわりに潜んでいる、小さな差別を意識する事が出来た瞬間から、わずかな希望の光は、少しずつ集まって行き、束となり、明確な意志を持って、動き出すのだと思うのでした:)

難しい事なのかもしれませんが、今生きているわれわは、すでに地球に生きているという事実を受け入れながら、一生努力し続けるしかないんだろうなと^^;だから、人生は、旅であり、終わりがないんだろなって勝手に思うアラキなのでした:)

差別と誤解のない世の中を想像しながら、今、ここで生き、そして出来る事をやる:)そんなおもいを忘れずにいたいと思うのでした。


20190715MON@KTM 吉日

SocialWork  8


何かをとらえる時の視点のあり方について、いろいろ考えさせらる事があります。例えば、子ども達を巡って、それぞれの立場からの意見が出されるなんて事は多々起きている現実なのですが、意見が対立して、何も進まないなんて事に陥ってしまう。せっかく共有されている時間が、それぞれに負の扱いとなり、子ども達の事での時間のはずが、対立関係を互いに深める負の時間になってしまって、残念で、もったいなって思うのでした。

そんな時に少しだけ視点を変えて、今起きている事をどのように認識するかっていう視点で改めて客観的な提案をしてみると、互いに視野が広がり、別の気持ちがわき上がるきっかけになる可能性を秘めているとアラキは考えています:)相対するものがあるからこそ、自分の意見が明確になり、相手との相違点が明確になるのであれば、その隙間を埋める、他の視点を検討するすることで見えて来る新たな価値観の創造というか、そんな期待をする事は、建設的な時間の共有につながると思うのです。つまり、今ここで起きている、共有されている時間から、未来へ連なる確かな一歩を共に得る為の瞬間であり、それは、必要としている方達の人生における財産になりうる、大切なきっかけでもあるということです:)

そう考えると、随分と時間の無駄をしているかもしれないなって思えてきたりするのです・・・確かに、人生に無駄な時間は存在しないとは思うのですが、少しだけ、別の視点から、今の動きを見つめてみて、第三者的に、客観的に、見つめる努力は、した方がいいかなと思うのです。それだけで、随分と状況は変化して行くと思うのです。つまり関係性が変化していくということです。その取り組みが、正解なのか、それとも不正解なのかと問われると、答えようがないのですが、様々な角度から検討する努力を共にしたのであれば、それは、充実した取り組みの土台を精神的に支えてくれる事にもなると思うのです:)

自分達の足下を見つめる事は、自分達の全体にも気を配る事であり、自分自身の人生においても、学び多き、貴重な時間を過ごす事につながり、自分に関わる方達の、その先にある方達へも、関係性が響いて行くのではないかなと思うのです:)

確かに現実は、忙しいのかもしれませんが、それは当たり前だと思います:)だから、その中で、さらに視野を広げる意志、意識を持ち、ほんの少しの瞬間、自分のから距離を置いた所から、客観的に自分のあり方を見つめ直し、再検討する:)そんな、時間をいつも意識的に持てるといいなと思うアラキです:)

もう一つ突っ込んだ言い方をすると、相手が言ったことで、自分が不思議だなって思った時、その不思議に思うという自分の気持ちがどこから生まれてきているのかって事を、探してみる^^;それだけで、客観的になれるかなと思うのでした:)

いろいろ思い当たる所のあるアラキです^^;アラキ自身、常に実践できたらと思います:)


20190714SUN@KTM 吉日

SocialWork  7

アラキのソーシャルワークの具体的な取り組みの中で、その取り組みの先々をさえぎるかの様な出来事が次々に起きた事がありました。ある、取り組みの手伝いを頼まれて、いろいろとやっていたのですが、本体のファンデーションのメンバーが善意という行為、つまりローカルなコミュニティーの力を利用した取り組みに対して、全てお金で解決出来ることは、お金で解決していまうという方法で、先回りして、取り組みが最終的には崩壊していったという現実が起きてしまいました・・・現地の方達も、困惑してしまい、いつもサポートしてくれる方達が、お金の力でいろいろと手を尽くしてくれるのですが、コミュニティーの成長の手助けにはならなかったのです。つまり、現地の方達のコミュニティーの成長があって初めて、課題解決の為のローカルな力が蘇るきっかけになる可能性を得る事ができるのですが、その成長のきっかけを、お金が奪う事になってしまったのです。お金は大切なのですが、使い方や、どこへどう分配して行くのかなど、使い道とタイミングがポイントだと思うのです。

アラキの経験の中で、起きた事は、現地の現実を知らないサポートしてくれる外国の方達が、その方達のイメージの中で、もしくは、外部の枠組を現地の現実を無視して、自分達の価値観と枠組を当てはめようとして起きた、不幸な出来事なのだと思うのです。

与える事が、全てを解決する方策ではないということです。今ここで生きているをどのように成長させていくのかという課題に、常に向かいあいながら、時間をかけて、自分達の生きるを未来へとつなげていく:)そんな取り組みがこれからはさらに大切になって行くと思うのです:)

しかし、まだまだ、与える事で、与える側の自己満足や、与えられる方達も頼ればなんとかなると、甘えてしまうということがおきてしまい、残念な現実が未来に待っていると思うのです。

厳しい現実が多々ある中、注意深く、どこに焦点を絞って、さらに、今ここで生きている方達の何が課題であり、その課題に向きあえるようになるまでの間、どのぐらいの時間が必要で、向き合ってから、どのぐらいの時間がさらに必要なのかって事を、少しでも日常の中で、自分達の生きるの中で、それぞれが個人的に、意識するだけで、意識出る方達が増えるだけでも、様々な現実課題は良き方向へ、つまり、個人の、そしてコミュニティーの成長へとつながるのかと思うのでした:)

アラキが経験した出来事のその後は、それは、それで、起きてしまった事なので、それをたたき台に、さらに次への取り組みとして、軌道修正しながら、現在も関わりを持たせてもらいながら、現地の方達と地道に取り組みを継続しています:)おそらくライフワークになるので、一生続くのだと思います:)

短時間で、そして、お金や権力だけでは、主題となる課題の解決の一翼は担うかもしれませんが、それだけでは、未来をつかむ事ができないという事を肝に銘じています。もちろん、緊急性の高い事柄もあるので、全てはないのですが、日常の中で、アラキが関わる事が出来る課題の大抵は、時間がひつような事が多いのです。

もう少しつけくわえると、与える事と、成長を促すきっけを作り続ける事とのせめぎ合いだなと。そう思える瞬間的な動きなんだろうなと。手元にそれがないなら、すぐ送るよ:)そして手元に届いたそれは、使い物にならない・・・それでは、送った方も、受け取った方も残念な思いしか残らないみたいな・・・そうならないために出来る事:)意識するだけで、何かが変化していくのなら、それは、互いの成長の為の、大切な心の側面であり、互いにとって良き、きっかけになるのだと信じるアラキなのでした:)

20190713SAT@KTM 吉日

SocialWork  6

ソーシャルワークに携わる方達が、困っている現実について、少し触れておきたいと思います:)アラキがアメリカは、オレゴン州、ポートランドへ落ち着いてから20年になるのですが、1999年から、2000年という、西暦の区切り的な時期に居合わせていて、いろんな事が世の中へと加速しながら流れ込んでいた時期だと振り返ります:)

アラキが渡米した一番の目的は、スクールソーシャルワークを勉強する為でした。ポートランドで出会ったスクールソーシャルワーカーと実務経験をさせて頂きました。そこで、様々な現実を目の当たりにするのですが、ソーシャルワークには答えがない、ケースバイケースであり、どんな活動をしているのですかって聞かれても、なかなか的を得た返事が出来ない・・・そして、ソーシャルワーカーの最大の難題が、家族へ自分のやっている活動を説明する事が困難・・・なんて課題が現実問題として、立ちはだかるのです。

それで、この、ミレニアムな時期に、一冊の本が発売されました。それは、全米のソーシャルワーカーの方達が、たしか、50人かな・・・100人だったかな^^;ポートランドに本を置いてきているので、すぐに確認できないのですが・・・ポイントは、多くのソーシャルワーカーが、それぞれ取り組んでいるソーシャルワークについて書いているのです。人それぞれのソーシャルワークが紹介されている本だったりするのでした^^;どこにも同じソーシャルワークが存在しないと言うことと、これを読めば、家族にうまく説明する事ができない事情がより明確になり、説明がうまく出来なかったソーシャルワーカーの助けになるかなって本なのです:)

アラキも父親と母親に何度か活動のありようというか、要点を知らせた事があるのですが、父親は理解できなかったようで、そんな仕事は世の中に存在しないということで、切り捨てられました^^;これが、ま、現実かなと^^;母親は、保育園に園長という立場で長年関わってきた人なので、少しは理解してくれています:)

そんな訳で、ソーシャルワークという枠組があるとしても、その枠組におそらくはある種の共通点は確かに存在するのかもしれませんが、人の数だけ、そして、その人の選択肢の数だけ、枠組が存在して、さらに、その選択肢が無限に広がっている事を考えると、枠組も無限に存在する事になり、一点集中的に内容をかいつまむ事が困難な事は、少し理解してもらえるかもしれないなと期待しています^^;

ちなみに、時間もかかります^^;現在のアラキの関わっている、カトマンズのでの活動は36年計画で動いています:)毎年、36年計画という枠組で、子ども達に関わりを持たせてもらっています:)そんな、ダイナミックな枠組から、足下までの、幾重にも重なる広大に広がる無限に思える世界の中で、いろいろな事が響き渡るのです:)現実は、シビアなものが重なりあってくるのですが、その時々の瞬間に立ち会いながら、未来へと連なる関わりと響きを、どこまでも共に追い続ける事ができればと思うアラキなのでした:)

20190712FRI@KTM 吉日

SocialWork  5

社会参加という言い方をアラキはよくするのですが、その言葉が意味するところは、今貴方がいてくれているから、社会が成立していて、貴方が今ここにいるだけで、実は社会参加はすでに成されている:)そして、その事をより積極的に受け入れ、自らの心が、身体が動いて人々との関係の中において、互いに気づき、そして、その気づきを次の動きへと広げて行く:)そんな、イメージの言葉として、アラキはとらえています。

以前、大学の特別講座の中で、ソーシャルクリエーターという言葉使って、説明した時期がありました。それは、今ここに生きている全ての人々がそれぞれに相互関係の中において、社会を創造する一翼をになっているということ。つまり、どこにも無駄扱いされるような人々は存在しないという事を踏まえて、社会は1人1人が創造している現実世界であると言う意味合いを込めて使いました。

ともすると、差別的な対応を受ける人々が世の中にはたくさん存在していて、差別される側の人々がいなくなれば、世の中はさらに良くなる的な発想の方達が、未だに少なからず存在している事実の中で、全ての人々が小さな地球という星の上に、共存しているという事を、もう少し真剣に、見つめる機会になればいいなという想いもそこには込めていました。

アラキ自身も障害者というだけで、いろいろな罵声を浴びせられたり、指をさして笑われたり、障害者だねって切り捨てられたりと、障害ではなければ経験する事のできない、差別的な対応を幾度も体験しています。一方、多くの方達の温かい気持ちもたくさん頂いています。松葉杖で移動している時、電車の駅のホームで乗り継ぎの方達がたくさん走りこんできて、背中を押されたアラキはそのまま、階段下まで転がり落ちたのですが、アラキを突き飛ばしてしまった方達は、無事に電車に間に合いそのままいってしまいました。彼らの日常的な現実は、守られた事になります:)そして、階段を転がり落ちたアラキは、荷物が散乱してしまったのと、片足でうまく体勢を整える事がすぐにはできなかったので、呼吸を整えつつ、その場で座り込んでいました。そこへ、学生服を着た、5人ほどの男子の達がやって来て、アラキの荷物を全て拾い集め、大丈夫ですかって事をかけてくれながら、松葉杖も持って来てくれたので、なんとか、その事態をしのぐ事ができたなんて事がありました:)1つは、様々な人々の日常の中に紛れこんだアラキがその方達の導線からはみ出し、そして、それとはまた別な日常の方達に、助けてもらったという、2つの事が起きていたとアラキは思うのです:)そう、2つの別々の現実が、アラキと境に起きていた事になるのかなと言う事です。そう考えると、現実の中で起きている様々な事柄の背景には、それぞれの現実と、社会への関わり方があり、どれか1つだけの答えを出すことが出来ない事も、ここで、理解する事が出来るかと思うのです:)

社会参加のあり方と、現実の世界と、それぞれの想いと、起きている事への他の方達の興味関心と、複雑に絡み合ってそれぞれが、社会参加しているのだということかなと思うのでした:)

いろいろな事を考えて行くと、それこそ、迷路のような事になるのかなと思うのですが、そんな、日常の中で、社会に関わりを持ちながら生きているって事を少し意識して生きて行くだけで、眼の前の世界が少し違ってみえてくるかなということなのでした:)人生には答えは存在しないって事になるのですが、だからこそ、人生は面白いのかもしれないなと、ふと思うアラキなのでした:)

20190711THU@KTM 吉日

SocialWork  4

その先にあるもの:)なんて問いかけで少し今を見つめる事:)そうすると、今ここでの出来事が、今ここにいる方達にその先でどのような可能性が生まれてくるのかと言うこと、つまり少し先の未来の可能性に触れながら、今ここを生きているという感覚だと思うのですが、これ、アラキ的なソーシャルワークの解釈の一側面だったりするのでした:)

今ここで生きている方達と、その方達の生活している生きている場所で、少し先の未来の可能性を模索しながら、さらに今ここでの可能性の扉を増やしてくようなイメージ:)この感覚が、日常生活の中で、それこそ日常的な感覚になると、人のそれぞれの関係において、それぞれの相乗的な成長がさらに広がりをもって、未来への可能性が幾重にもかさなり、その事が今をわくわくしながら、生きていけるということにつながって行くと思うのです:)

なんて事が、少しでも、いろんな方達の生きるのヒントになり、その方達の関わる方達のその先にある未来へと送り届けるというか、響き渡る事ができれば、それは、なんだろう、適切な言葉を見つける事ができないアラキなのですが、きっと、素敵な事だなって思うのでした:)

さて、気合・気愛で、555!!!なのでした:)

20190711THU@KTM 吉日

SocialWork 3

自分達が、今ここに生きているという現実をどのような視点から、日常生活の中で、意識する事ができているのかって事が、結構大切な事だとアラキは考えていたりします:)自分の足下を見つめて、自分が立っているまわり、空間を認識して、その空間で起きているだろう様々な科学反応というか、起きている事柄の中に自分もいると言う感覚というのかな・・・そんな事をふと、様々な現実の中で、瞬間瞬間、本当にほんのちょっとの隙間で、それらの思考と、視点と、空間と、引力と、風景などなどから、自分の行動を自分で決めている:)つまりの自分の生きているは、自分が決めて、その自分の意志に従って、最終的には成立しているって事だと思うのです:)

そんな事を風景のように見渡しながら、足下を見つめて今をどのように生きるのかって事を常に意識化することが出来れば、もっとまわりとの関わりや、自分が社会に生かされているって事が身近なものになり、ギクシャクとした社会から、風通しのよい社会へと、コミュニティー全体が成長していく事ができるのではないかなと、思うのです:)

SocialWorkの醍醐味はまさに、そうした世界観かなとアラキは考え、今日まで活動をしてきているのですが、もちろん、これには答えはありません^^;その時、その時々で、ベストを尽くすのみなのですが、集中力とそれを支える体力と、筋力に感謝しながら、今日も気合・気愛で、555!!!なのでした:)

20190710WED@KTM 吉日

SocialWork 2

ソーシャルワークという言葉が、広く世の中に浸透しているのか、あるいは、ごく一部の方達の所で、深く浸透しているのか、実の所、現状どのような形で、受け入れられているかと言うことについては、計り知れないのですが、おおよそ、多くの方達が、一度は聞いた事がある言葉ではないかなと、期待しているアラキなのでした:)

ソーシャルワークという言葉がいつ生まれたかについては、勉強不足で、アラキはしらないのですが、この働きを定義して、社会参加する為に必要な諸々に対して、サポートするという事を専門的に行う方達が登場して、その働きは、実社会の中で機能し、様々な分野に細分化されながら、現在に至るという事だそうです:)

実に、100年以上前の話になるのですが、アメリカの工場地帯で起きた社会的に機能する専門的な取り組みと言うことになります:)細分化される中で、労働者や家族、そして、子どもという形でその歴史をきざんきているのですが、特に、ソーシャルワークの概念が生まれて社会的に機能し始めた翌年には、スクールソーシャルワークが誕生しています:)

未来を担う、子ども達を守らなければという意志が、その当時すでに、社会の中に息づいていたことを垣間見る事ができるのでした:)

20190708MON@KTM 吉日

SocialWork

ソーシャルワークという言葉は今日、日常的な言葉になっているのではないかと、思うのですが、いかがでしょうか?アラキが携わってきた、教育の場であったり、地域のコミュニティー、社会生活全般に関わり、その言葉の意味する範囲の広さには、ルールがないのかなと、アラキは感じています。公教育の場を去ってから、20年、様々な場所で、様々な人種、環境、性別、障害などの有無などの枠組を越えた所でのコミュニケーションにおける人と人との関係生のあり方1つ1つが、社会を変容させて行く原動力であり、社会的な責任の所在を強く意識させてくれる場であり、これからもそれは継続されていくのだなと、実感しています。それら、全てを包括して、ソーシャルワークかなと:)そして、コミュニティーの成長に関わり、個人もコミュニティーも共に、ゴール無き成長の過程で未来へと進んで行くのだと強く信じています。アラキの哲学、”Daily life and every small thing is the gate to the universe : )”は、そんな想いのほんの一部を代弁してくれてもいるのです。

さて、ここでは、アラキの活動が多岐にわたるのですが、それは、多岐にわたるように見えながら、実は、たった1つの事しかできていないって事を説明する為に出来たページかなと、書きながら思えるアラキなのでした:)難しい事が世の中には、あふれているのですが、実はシンプルであり、それを複雑にしているのは、人そのものであり、そこの呪縛から、解き放たれる為にもがいている感じでもあります^^;
そんな、アラキ的な発想の一部をここで、お伝えする事が出来れば嬉しいと思うのでした:)よろしくお願いいたします:)
20190702TUE@KTM 吉日

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